昭和44年05月18日 朝の御理解



 御理解 第12節
 「神に会うと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」

 神様に会おうと思えば、外へ出てみると、空が神であり、下が神様だと。天地の親神様の姿と言うか、そのように説明しておられます。ただ神が会おうたというだけではでけん。信心はその神様を頂かなければならん。御理解十一節に、「神は天地の守じゃから 離れる事は出来ぬぞ。」とこう仰る。空が神下が神とこう仰るけれども。それはその姿をいわば天地にですね天地を守ってござる働き、守ってござるお方が神様である。天地そのものではない。
 だから私共が神様外へ出てみると、そのう天地はそのまま神様の姿だと言うのではなくて、その天地が動いておるというか天地が生きておるとおうか、そういう働きを言うのですね。その天地が生きてござるその印を、天地を見て悟らして貰う。天地の守じゃからとこう仰る。天地をいわば動かしておられる働き、金光様の御信心はその神様を私共が頂くという所にある。神様を頂くという事です。神様に会おうと思えば、その庭の口へ出てみよりゃはぁ神様だなぁと、こう神様の働きを感じん訳には参りません。
 第一私共が外へ出てから、こう深呼吸でもしてみるとそれがよう感じられます。今青葉若葉の時期ですがね、もう生き生きと青々として芽を吹いておる、そういう姿に触れます時に、そういう働きをして下さる神様を、そこに思わん訳には参りません。誰がこの木一本なら木一本を育てて下さっておるかと。それを守をして下さっておるか、育てて下さっておる。それを神様とこういうのです。ですからそういう働き。そういう働きを私共の頂いておる神様は、持ってござる神様ですから。
 その神様を頂くとという事によって、いわゆるおかげを受けられるという事になる。そこでその神様を頂くという事は、どう言う様な事か。神に会おうと思えば庭の口に出れば分かる。ですからその神様を頂こうという思えばどうしたらいいか。庭の口に出てみただけでは分からん。十三節にも「神は向こう倍力の徳を授ける」と仰るね。頂くという事はどういう事かと言うと。神を頂くという事はね、神様のその天地をまる生かしなさる程しの御神徳。その御神徳を頂くという事である。神を頂くという事は。
 しかもそれは向う倍力と仰っておられる。私共が百の力を似ってその神様へ向こういけば、神様は言うなら二百の徳を下さるね。五百の徳を似ってすりゃそりゃ千の徳を下さると言うのですね。神は向う倍力の徳を授ける。それでこちらのいわば向い方、神に会おうと思へば庭の口に出てみりゃ分かる。話を聞いただけでもなる程神様じゃなと分かる。お野菜一本でも人間が自分で作るという事は出来けん。それを育てて下さったりね様々な天地の働きを、その植物一本の上にでも現わしてしたさる働きを持ってござる神様。
 その神様を頂くという事が信心だと。神に合うと思えば庭の口に出てみれば分かるけれど、その神様を頂くという事。神様を頂くという事が信心である。それはどういう事かと言うと、天地のいわゆる大徳と言うかねぇ。御神徳天地の御大徳にに漏れると、漏れる事はなき言ぞと仰るその天地の大徳。その天地の大徳を私共の信心いかんによってです、百受ける人もあれば、二百受ける人もある、又は全然受けない人もある。その天地の大徳を私共がそれを受けさしてもらう事が信心だ。
 そこで私共はその天地の大徳を、受けさして頂く事の為に信心生活があり、信心の精進があると言うても良いのですけれども。その天地の大徳というものを先ず私共が見らなければ、承知がいかん。自分の身にその天地の大徳を見せてもらわなければ、承知がいかんのが人間です。いわゆる疑い深い訳ですねえ人間は。それをお取り次ぎを頂いてお願いをする。してそこに現れて来るところの霊験。いわゆるおかげなんです。そのおかげを見たり聞いたりして、なる程神様じゃなという事が分かる。
 だからそのおかげを頂いただけではね、信心を頂いたという事にはならん。神様を頂いた事にはならん。それは神様を知るよしなにしかならん。それは庭の口に出てみて空を仰ぎ、又はその大地を拝んでです。はぁこの天地が神様だと、天地の働きというものを分からしてもろうて、はぁこれが神様の働きだと分かるだけで。その天地の働きを私共が頂くという事、それからが私は信心なんだ。天地の大徳に浴しておりましても、神様のそうしたお徳の中に生かされておりましても、私共がそれを頂かなければ分からん。
 頂いておるという事が分かん。話を聞いただけじゃいかん。やっぱりおかげを受けて徳を受けるというその信心を頂いて初めて分かる。そこでそのうその神様を頂くとはならどう言う事か。又はどう言う様な生き方在り方にならせて頂いたら、その神様を頂く事が出来るかと、という事になる訳ですねぇ。先日吉井の波多野さんが、ある大きなお寺さんにおい出られた。そこで頂いて来ておられる、これは参った人に全部こう配られたそうですが。その禅宗かなんかでしょうかねぇ。
 ちょっと説明がしてあります。正にこの通りだと私は思いました。ですからひとつ読まして頂きましょうかね。「一始めの言葉として。生死大事と是は生き死ぬですね。生きる死ぬことの大事、無常迅速光陰惜しむべし、時人を待たず。人の身は受くる事がたし。今すでに受けたり、み仏の教えは聞く事かたし。今すでに聞き得たり。この身この命あらんうちに悟らずんば、いずれの日にか悟ることを得ん。世の人諸共に一心に三っの宝に帰依し奉るべし。」とあります。
 私は学がないから、あんまり意味か分からんのですけれども、まぁ私はいい言葉だなとこう思いますね。「無常迅速光陰惜しむべし時人を待たず、人の身は受くる事がたし、今すでに受けたり」と、なかなかそういう大変な事をですね。分かるという事はなかなか受けがたいのだけれども。「今すでに受けたり」私は今すでに受けたり。こういうなると思うんです。御神縁を頂いてそして葉じめて天地の御大恩を分かったと。天地の御大徳を分からして頂いた聞かせて頂いたね。
 私共はその天地のおかげで、こうやってお生かしのおかげ頂いておる事を今知った、悟ったと言うのですね。自分で生きてるように思うておったけれども、そうではなかったんだと、天地のお恵みを浴すそういう大変な事をです、なかなか分かり難いけれども、ここにひとつの縁を受けて、初めて今、今既に受けたりという事。ですからその今すでに受けたりというやはり実感というものがなからなければならんですねえ。何事言いいござるかいっちょん分からん。そ
 りゃそうじゃろばってんと思うて疑いをもって聞いたら、それは受けとらんのと同じ事。それは生死の大事と、いわゆる生きる死ぬるの一大事だと。無常迅速いつ無常の風が吹いて来るやら分からん。それは昨日もね。この大善寺と言う所に教会がありますから、そこの先生御祭りを仕えてから御大祭じゃったそうです。御祭りが仕え終わられて三十分したらちゃんと死んどられた。もうまだ私共位でしょうがねえ。先月このう何の時にお参りさして頂いてお会いしたんですけどね。もう本当に無常迅速ですねえ。
 あっと言う間も無いというのです。人間が命をこと切れる時に。ですからこの一大事をひとつ悟らしてもろうてですね。その大事をひとつ悟らして頂かなければならんと。今既に聞き得たり、この身この命あらんうちに悟らずんばとこう。まぁだこうやって元気でお参りができておると、まぁここで言うならば。お参りが出来んでもです。まぁこの命のある内にですその事を悟らなければ、もう死んでからではもう遅かという事。けれども信心さして頂いておってもです、教えを毎日浴びるように頂いておってもです。
 悟らなかったらだから同んなし事ですよね。その人生死ぬるなら死ぬる。生きるなら生きるというその事実をですね。いずれの日にか悟る事を得んと、今悟っとかねばいつの日にか悟る事が出来るかと、世の人もろとも一心に三つの宝に帰依さし奉るべしと。この三つの宝に帰依すれば、帰依するという事がです。まぁ言うなら極楽浄土という事じゃないでしょうかね。次にその三つの宝という事を、三帰依文とあります。それを三つの宝とまぁこの教えでは言うておる訳ですよね。
 その三つの宝はどういう事かと言うとですね。「南無帰依法 南無阿弥陀仏の南無ですねえ。南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」とありますね。いわばお道の流儀で言うならば、これ私もよく分かりませんけれども。南無阿弥陀仏と言う事は、阿弥陀仏に帰依すると言う事だそうですがね。いわば天地に帰依するという事だと思います。天地に帰依する。これは帰依をするという事は、どういう事かと言うとですね。よく申しますですね。あの人はもうあの人に帰依しちゃる。という事ですね。
 それをその天地に帰依する。天地のねお恵みを受けなければ、天地の親神様のおかげを受けなければ私共はね。ここ一寸動かれないといないんだと思い込む事は、天地に帰依した事ですね。この神様のおかげを頂かなければ、人間の真実の幸せは絶対にありえないです。お金があったり物があったり、家の中が円満であったりだけでは、人間の幸せではないです。人間の幸せの全てのカギをですねえ、持っておられるのが天地なのです。天地の神様なのです。ですからその神様にまず帰依しなければ。
 この神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのだと帰依する。これが第一だと。南無阿弥陀仏。多分仏教ではそう説いておられるのですねえ。詳しくは知りそう言う様に私はまぁ思うです。南無帰依法と。これはその法に帰依するという事です。これはいうならどういう事でしょうかねえ。天地の事訳という事、次ぎ言うとられますが。天地の真理とこう。いわゆるいわゆる本当の事と言う事です。又は法則とも申します。天地の法則。それをお道では天地の道理と言うております。天地の道理に帰依する。
 そのためにはまず天地の道理が分からなければいけん。天地の親神様に帰依する為には、天地の親神様の心がよう分からにゃいけん。天地の親神様の心を、こうして話を以て聞かして頂くのであるね。そのお話しに帰依をする。お話しを聞いて天地の親神様に帰依をする。この神様のおかげを頂かなければ、この神様からお道のお許しを頂かなければ、この神様からお暇が出た時にゃもう、あぁもすうも言う暇が無いほどに迅速な、あの世行きであるという事。
 だからまず天地に帰依をする。しかも次ぎには天地の法に帰依をする。天地の道理を分からしてもらい、道理に従った生活をするという事である。もうそれに帰依しきってしまう、それを信心生活とも言う訳ですね。教えに基づいた生活とも言えましょう。教祖様は、その天地の道理をこと細々と説き明かしとって下さってあるのです。人間は万物の霊長であるから、万物を見ていわゆる天地を見て、天地の全てを見てその道理を悟り、その道理に合うた生活をせよとこう言うておられる。
 人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよとこう仰る。ですから先ずその法に帰依する。言うならば教えに帰依するという事になるでしょうねえ。それで二つの帰依がある訳ですね。神様天地に帰依をする。その天地の法則。天地の法に帰依をする。まぁこれは私どこまでも私の解釈ですから、そうじゃないかも知れんけれども。しかしその私が説いておるその事は事実です。この意味は違うかも知れんけれども。確かにそうです。私共がですね信心が深く分かっておられるという事は。
 この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんといいう事が、真実分かっておる人だと私は思うです。その真実分かっておる神様を本当に頂いておる人というのはね、その法に従って、教えに従った生活をしておる人だと私は思うです。次ならどういいう事かと言うと、南無帰依僧とあります。僧は坊様の僧です。これも大変難し事のようですけれども。私は私流儀にですね、いわゆる金光大神への帰依です。
 お道でいうならば。そういう天地の親神様が、おかげを頂かねば立ち行かんという事を分かられた。しかもその天地にはこういう道理がある。その天地にはこういう法則があるね。その天地の事訳天地の道理をです、私共学問があろうが無かろうが、男でも女でも子でも分かるようにかんで含めるように、教えて下さったのが金光大神であるね。そこでその法に従うという事。それがその法に帰依した訳です。教えに帰依する。
 昨日の朝の御理解でいうなら、御地内を例えばみだりに穢すなよ言う様な事があったら、本気で御地内をみだりに穢さん事に精進する事なんですね。金光大神が教えて下さった事を本当にそのまま守らせて頂くという、守らせて頂かなければ人間の幸せはないと分かせて頂く事が、その法に帰依した訳だと。私はこれはこんな事じゃなかろうかと。これで二つの宝が、三つの宝とここに書いてありますが、二つの宝の事を説明しました。最後に南無帰依僧。
 帰依僧というのは、これ私これ意味分かりませんけれども。これは私は金光大神への帰依だとこう思うのですね。ですからそれをもちっと言うとです。親先生への帰依だと言うのです。金光大神の手がわり。金光大神のいわば代弁者ですかね。金光大神のお手がわりとしてその教会、教会に御用を頂いておられる先生、親先生に対するところの帰依なのである。これもお道ではその事を申しますね。ここへ座っておる例えば馬鹿が馬鹿が座っておったちゃですよ。
 私んごたっとが座っとたちゃ、やはり金光大神そこにおわします。金光大神の御座として、ここを拝してもらうという事。そこに金光大神の働きがそこにあるとは。それはあの御結界を拝む、御取り次ぎ者を拝むという事はそういう事なんです。それは金光大神に帰依し奉とりますという姿なんです。拝むという事は。その金光大神への手がわり、その教えを教えて下さる、又取次いで下さる先生。先生への帰依。
 金光大神とにかく教会でも、その親先生の言われる事が、信じられなかったらおかげを頂かれないと、言われておりますのをこの事なんです。先生はあげん言いなさるばってんそげな訳にいかん言うところにもう帰依がない。例えそれが嘘であっても先生が言うて下さった事だからと頂く。それを帰依と言うのです。これだけは頂くばってん、これだけは頂かれないという事であってはならない。それを例えばこの教えでは、三っの宝と言うておられますが確かに宝だと。
 今日私が申しますね。庭の口に出てみりゃ神様が分かる、会う事は出来るのだ。面会が出来るのだと。けれども面会が出来ただけじゃおかげにならんのだ。その神様を頂かなければならない。なら神様を頂くという事はどういう事かとね。そう頂く前にこのひとつ始にありますように、人生の一番大事な事をひとつ分からしてもろうて、心に大きな悟りを開かしてもらわなければならん。そしてこの三つの宝を大事にしていかなければならん。この三つの宝をですね。
 宝とここで言うとられますこの宝をです、大事にするという事が神様を頂く事になるのです。その三つね。開教の言葉とある。「世にたぐいなき深き御法を、そのことわけは真理と書いてあるね、のりとは法と書いてある、法(のり)はその真理(ことわけ)はなはだ深くして よろず世にもあい会う言かたし われ今耳に聞き心に保つ事を得たり 願わくば如来の真実義を悟らんことを」とあります。
 そういう深い広い大変なお話しをです、本当のことわけを聞かして頂いたのであるから、それをこの耳に聞き心に保つ、聞いて心の中にあぁそうだと思って自分のものにしてです。まぁおかげを受けていってくれよという事だと思います。ですからやはりこういう例えば、仏教の教えの一番大事なところを、こういう簡単な紙に書いてございますがです、これを何千枚これを頂いたところで、読んだところでですね。その神様を頂かなかったらなぁにもならんのです。神に会うただけじゃいかんですね。
 天地に帰依しねその教えに帰依し法に帰依する。そして金光大神、僧への帰依、取次ぎ者への帰依。この三つが宝だとこの教えでは言うておられます。ですからひとつ本気でです、私共が神様に神に会おうと思えば庭の口へ出てみよですから、そこで神様を見たのですから、見ただけじゃいかん。会うただけじゃいかん。それを頂くというところが信心だと。頂くという事はどういう事かと言うとです。神様のお徳を頂くという事だと。神の大徳とこう仰るが。天地の大徳。その天地の大徳を受ける。
 その大徳をお受けるためには、どういう信心をさせて頂いたらよいかという事になります。それを今日は皆さんに聞いて頂いた訳ですね。天地の大徳を受けるね。その大徳と会うのでは無くて大徳に触れるのでは無くて、その大徳を頂くのである。その大徳を頂くためにはまず天地への帰依だ。帰依ね。教へ帰依。法へ帰依。道理を分からしてもろうて、天地の道理を分からしてもろうて、天地の道理に即応した生き方。天地のここはことわけと言う事真理と書いてある。
 天地の真理を分からしてもらう、真理とは本当な事と言う事である。その本当な事をです分からしてもろうて、その本当な事を行じていけ。それにはそれを教えて下さる先生に帰依しなと。それを金光大神への帰依と。それを仏教では南無帰依僧とこう言うてあると、言う風にまぁ申しましたね。神は天地の守りじゃから離れる事は出来ぬぞと。その天地を動かして下さる、それは小天地と言われる私共も一緒に、天地と共に動かしておって下さる。その神様の働きというものがですね。
 私共がそれこそいかにもうまだ死にたくないと言うてもです。あっと言う間に死んでしまわなければならない。そういゆう死ぬる生きるの鍵を握ってござる神様。言うなら幸不幸の鍵を握ってござる神様。そんなら不幸の事よりもやはり死ぬる事よりも、やっぱり生きる事を幸福の事を願うのが、生きおる人間としてこりゃ当然の事。その当然なる事までは、分かっておるけれどもです。その幸を受ける生を受けるという事をです。ただ医者や薬だと言うて頼っておったりね、幸になる幸せになるという事をです。
 金さえあれば物さえあればと、只その事だけにいわば執着したり、そういう生き方をですね、私共がそれは本当の生き方ではない悟らしてもらわにゃいけん。この世は金だけじゃいかん。只体が悪けりゃ医者があるけん、薬があるけんだけの考え方じゃいかん。それよりもその大元である所の、その神様天地の働きを知って、その天地の働きに即応する生き方になる所からです。いわゆる神様の心に添うて行く所からですね。医者の見離した病気も助かるであろう。商売も繁盛するであろう。家庭も円満になるであろうと。
 そういう幸せを受けさして頂くその元がです、この三つの宝であります。この三つの宝を自分のものに頂いておかげを頂きたい。只お願いをしておかげを頂くという事だけではなくて、お願いをしてこういう大事な事をひとつ分からしてもらう願い。同じ願いでも、そういう信心をひとつ本気で頂かなければ、これは仏教だけではないあらゆるまぁ宗教がですね、大体このような事を同じような事を言うておられるじゃないかと、他の宗教は知りませんけども思うのです。
 そこにはそれぞれのやはり生き方が有りますから。何宗でなからな何派でなからなならんという事はないですけれども、現実ここのところを行じてですね、本当に今この三つの宝を大事にしてです、そして本当に天地の恵みを受け続けておられる。大徳を受け続けておられる。実際におかげを世に現わしておられるという人の姿に触れるが一番だと。そういう意味では、金光教は生きておると私は思うのです。御本部の金光様がそれである。そのお手代りをさせて頂いておる、ならここで言うならば私。
 私が今申しました天地への帰依、天地の法への帰依ね、金光大神への帰依、それは皆さんが私を見ておって下されば、どのくらい帰依しておられるかということが分かる。そこからなら人間の幸せというものをです私が、ここに現わしていきよる。それを見て下さる。だからこれが一番間違いないでしょう。こういう素晴らしい事を何万枚配ったところでですよ。いくらこれを得々として説明したところでですよ。その例えばお坊さん自身がですよ。おかげが受けて無かったとするならばです。
 ここのお寺さんはここで料理をしておられるんです。精進料理を。精進料理の方で繁盛しておられるというお坊さんです。これをやられたというのは。だからねそれではその坊さんの言う事は聞かれないでしょうが。精進料理の仕方どん習うてくる事はよかろうけれど。ですから本当をこれを実行して、こういうおかげが受けられるという事実をですね。見せながら私が、教えていけれるというのは、今は金光教をおいてはない。まぁ合楽をおいてはない。私はそう確信しております。
 だからそういう素晴らしい事であってもです。いわゆるはぁそうだと本当に悟らなければ、なぁにもならんという事。私は夕べ思わして頂いた事があった。お風呂に入らして頂いてもご飯を頂いても有り難いなあと思う。お互いが皆さんが言うでしょうが。有り難いなあと思うでしょうが。そこでその自分の頂いておる有り難いなぁが、どの程度の有り難さであるかとゆう事をね。時々試してみにゃきゃいかんですよ。自分が有り難とうございますと言いよるばってんね。
 もうほんなごて有り難かなのごつ言いよるばってん、有り難かなの証拠にはすぐ腹かきよるじゃないかお前や。すぐ悔やみよるじゃないか。不平不足ば言いよるじゃないか。そのくらいしか有り難くない訳ですよ。本当に有り難いならね、不平もなかれば不足もない。不安もなからなければ心配もない。だから自分という者をみてから、はぁ自分なまぁだ有り難いと言いよる、そりゃすらごとじゃない。けれどもその有り難いと言いよるとは、たったこのぐらいが有り難さであると悟らしてもろうて。
 いよいよその有り難いというものをですね。深い広いものにしていかなければならん。おかげは和賀心と仰る。一心に頼めとこう仰る。その一心というのが、自分の一心がどういう事かと。試めしてみなきゃいけん。自分が言いよる一心とはどのくらいな一心か。自分が和賀心といいう、喜びの心というというのは、どのくらいの和賀心を頂いておるかという事を試めしてみてです。はぁこれじゃおかげが受けられんはずだと悟らしてもろうて。この位な有り難さではおかげは頂いけんはずだと分からしてもろうて。
 自分にゃ一心に参りよると言うばってん、自分な一心なこのくらいな事。さぁ起きらんかと言われたっちゃ眼が覚めん位な一心でしょうが。こうせにゃならんと思ようるけども、そうもしきらん位な一心でしょうが。だから自分の一心の程をです。私は確かめてみる必要がある。そういう例えば有り難いとか一心とかをね、確かめさして頂きながら、その一心をもって有り難いという心をもって、その三つの宝と言うておられるです。その三つの宝を自分のものにしていく。その宝を自分のものにして行く。
 それを金光大神はね、ここでは「神は向う倍力の徳を授ける」と。信心とはその天地の大徳を仰ぐ事ではなくて見る事ではなくて、その大徳を頂くという事だと。言う風に今日は私は申しました。その大徳を頂く為に一心が必要。和賀心が和らぎ喜ぶ心が、必要なんである。それにはそういうおかげを頂く為には、この三つのこの宝というものをですね。分からしてもろうて金光大神への帰依。教えへの帰依。法への帰依天地への帰依をいよいよ深い広いものにしてゆかねばならんという事になります。
   どうぞ。